昨日は久々に2冊の本を読み終えました。
で、メルマガにこんな一文を書いたんだよね。
「充実した人生は、外に現れる行動が内なる価値観、信念、願い、夢と調和が取れている、自分にとって完全な生活を送った結果なのだ」。
これは、普通に考えると「真理!」でしかないのだけれども、人は「ポンっ!」と、こういう言い方「だけ」をされても、ピンと来ないものです。
なぜなのか……その理由をあっさりと言うと、
●理由や根拠が述べられていないから、科学的に感じられない
●具体的でないから、実感しにくい
●宗教的な言い回しに、胡散臭さを感じる
といったことが考えられます。
でも、何よりの問題は、「充実した人生は……」という言い方から始まること。
「充実した人生」って、どういう人生なの?
その定義ができていなかったら、論理にはなりません。
で、今朝は別の本を読んでいました。
哲学や心理学や脳科学に根ざした本です。
そこにはこう書いてありました。
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……私は、何をもって幸福とするか、という価値観については、往々にして他人が決めたことを鵜呑みにしている人がほとんどだと思う。これは、人は幸福を目指すものなので、幸福の定義を決めてしまえば人や社会をコントロールしやすくなるからであろう。
人間は放っておいても「幸福になるには?」と考え、幸福を目指すので、「幸福とは何か」を都合よく押し付ければ、人はあたかも自分の意志であるかのように嬉々として「押し付けられた幸福像」を実現させるのだ。
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この本では、オキシトシンとかドーパミンとかいった「脳内ホルモン」の働きについて解説されているから、それを理解すると、昨日の引用文の「充実した人生」も「脳内に幸福ホルモンが分泌されることが多い人生」と言い換えることができます。
その上で。
この本には「卑近な実例」もたくさん出てくるから「実感」しやすいのだけれども、脳科学的に考えても、会社が言う「お客さまのため」という言葉は、完全に人の世に不幸しかもたらさない、最悪の言葉なのです。
そういう言葉に人は弱いんだよね〜。
でもそれは、生き物として弱いのだから仕方ない。
もちろん会社は「人の世に不幸をもたらそう」と思ってやっているワケじゃないですよ。
でも、「お客さまのため」という言葉が、セールスを操作しやすい言葉だということは、風習的に分かっている。しかも否定にしにくくて、都合がイイ言葉だからね。
だから便利かつ安易に使う。
でもそれが……生保会社だけではなく、どんな集団やコミュニティにおいても、不幸を呼ぶのです。
こういうことが「分かる」「分からない」の差が、人生における幸せの量の差になるのですよ。
それが「分かる」のが「こっち側の世界」。
真逆の方向に行くのが「活動量型」の世界なのです。